見沼通船堀は浦和市の東郊に位置しています。享保16年(1731)東西の代用水路と芝川を結んで東西2ヶ所づつの関を設けた高さ3メートルの水位差を調整して船を通すという我が国最古の閘門(こうもん)式運河です。 一の関、二の関の間を閘室といい、ここで水位の調整をして、船を通す仕組みになっています。 世界的に例をみると中国で1284年に閘門を用いた大運河が作られたと言われ15世紀にはイタリアやドイツなどでも作られました。また閘門式運河として有名なパナマ運河の完成は1914年ですから、183年早く作られました。規模の大きさでは比較できませんが着想の斬新さや工法の優秀さでは世界的に見て優れているといわれています。 江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として、昭和57年7月3日に国指定史跡になりました。
●見沼の新田開発と通船堀、 井沢弥惣兵衛 かつて見沼という大きな沼がありました。江戸時代初期(1629)、関東郡代伊奈忠治(いなただはる)はこれを灌漑用水とに造成しました。忠治は八丁(約900メートル)の堤を築き、見沼を溜井(ためい)としました。 八代将軍徳川吉宗の時代になると新田開発が進められ見沼も新田化されることになり、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)がこれにあたりました。 まず、八丁堤を切って見沼の水を排水し、芝川を作りました。旧見沼溜井は新田に造成されました。これが見沼たんぼです。為永はこの新田をうるおすため、利根川から水を引くことにしました。現在の行田市中条から利根川の水を引き入れ延々60キロメートルにわたって用水が作られ、見沼溜井に代わる用水と言うことで見沼代用水と呼ばれました。見沼代用水から引いた水は新田で使用され、芝川に排水されます。このように、用水と排水を分離する方法を紀州流と呼んでいます。
見沼の干拓、新田造成、東西の代用水路は着手してから半年後の享保13年の春に完成しました。 次に代用水路縁辺の村々と江戸を結ぶことを考えた為永は代用水路と芝川を結ぶ運河をつくることにしました。享保16年(1731)東西の代用水路と芝川が最も近い八丁堤付近に見沼通船堀を作りました。